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絵画(日本絵画、美人画、西洋絵画、素描?版画)

上村松园画集 平野重光监修

至高の美人画-その诞生の轨迹

明治8年、京都に生まれた松园は、気品に満ちた美人画を描き続け、
昭和23年、女性初の文化勲章を受赏しました。
格调高い美人画は、日本画坛史に灿然たる光芒を放ち、
その清楚にして典雅な絵画世界は、今日もなお、
多くの人々に深い感铭を与えています。
本书では、代表作を全国に取材し、松园芸术の轨迹を辿ります。

监修:平野重光
序文:上村敦之
解説:鬼头美奈子、青山训子
寄稿:志村ふくみ、杉本秀太郎

上村松园画集
平野重光监修

□ 判型:A4判
□ 総页:160页
□ 并制
□ ISBN 978-4-86152-177-5

定価:3,800円+消费税
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书?评

松园の母

二十年ほど前、上村松园について书いたことがあって、その顷私は、「夕暮」が好きだった。『もう一寸、ほんのこれだけ缝うたらしまひのんやよって、ほんに阳のめの昏うなった…』(青眉抄)
御针をする母の後にちょこんとひかえて母の仕事の终わるのを待つ少女、松园がこの絵にかさなって见える。质素な一风淡茶色の无地の着物、淡緑の格子の帯、御针道具と、细めにあけた障子、黄昏の外光の中に针のめどに糸をとおす遥かな目ざし、聡明な意思の宿るその眼は母をとおして松园の眼だ。母は松园の芸术を爱し、守ってくれる唯一の人だった。その面影は松园にとって菩萨様のようだ、と昔私は书いている。私もまた心から仕事を応援してくれる母をその顷失っていたせいか、とくにこの夕暮の母が好きだった。
その顷からはるか时を経て、再び松园の画集の前にいる。何かが违ってみえる。それは当然のことではあるが、松园の仕事全体から大きく浮び上がってくるものは、日本のその顷に生きた人々、女性の姿である。何という奥床しさだろう。深く深く心のうちに浸み入る床しさ、言叶にもならないほど慕わしい人々。わが母、祖母、明治生れの家庭の奥深くにひっそり暮した人々の绢ずれの音、嗫き合う可怜な会话、すこしみだれた裾のすきまにみえる白い足、小さくてぺたんとした足のうらまで可爱らしい。真赤な蹴出しも罗ものに透けてみえる白地に赤の长襦袢も、そういえば见たことがある。紫に萩の帯、黒地の桜模様など母の箪笥の中にみえた。栉、こうがい笄も刺繍の半襟も次々に目に浮ぶ。みんなどこへ行ってしまったのか、松园の女性の内奥にみんなしまわれてしまったのか、どんなに豊かに繊细に衣装は整えられていたのだろう。时がゆったりと、静かに过ぎる中で女性达もそのリズムで花见に、红叶狩りに、装いをこらして出かけたのだろう。その昔を现代と比较して叹くのは止そう。
松园という人が画きのこしてくれたこれ等の女性は、まぎれもなく我々の母であり、祖母なのである。血はあきらかに流れ、脉打って娘、孙に伝っている。何と床しい日本の女性だろう、と深く心に刻んでいよう。
このたび私が真新しくも目に焼きついたのは、「母子」(昭和九年)の姿である。なぜ気付かなかったのだろう。何ども何どもこの絵をみて、展覧会场でこの絵はがきを买っているのに、最も心ひかれる絵だと思っていたのに、実は何も见ていなかった。
中国风の斑竹の优雅な帘の影から忽然とあらわれた母と子、何かこの世のものではない精霊のようにさえ思われる。一刷の红の影もない白い肌、青眉とお歯黒、乳くさい児を抱いている母亲とは思われない清艶さである。
松园は、松篁という优れた画家を産み育てたまぎれもない母亲であるが、これほど幽玄な母子を出现させていることにはっと惊くのだ。母が子を担うその血の匂い、浊り、执着はどこへ行ってしまったのか、非日常のきれいごとでは絶対にすまされない母子の、これはまさしく磨ぎすまされた一瞬の幻であろうか。ダヴィンチやラファエロの圣母子ともちがう、さらさらと竹林の中を小走りにかけ去ってゆく後姿をみやるような思いでこの絵に见入る。
松园の女像をみると必ずどの絵にも襟の奥、袖口、振り袖などから红がこぼれていて地味な着物ほど妙に生めかしい。ところがこの母子には全く红がない。むしろ红を许さない。松园は母と子の断面に决して红を许さないのではないか。まして母と息子、それが松园の禁色であったのではないだろうか。マリヤとキリストの中にもそれはあったに违いない。息子こそ永远に母のものだと。
松园が生きた道、画业を、若い顷からずっと慕わしく思いつづけてきた。私は、今こうして松园より更に年をとって自分の人生にかさねてふりかえってみると、その一歩々々の纯度、揺ぎない仕事への爱情に胸打たれる。
糸にたとえれば、その茧の质のよさ、捻り、练りにもすべてが损なわれることなく、ふっくらと见事に仕上っている资质に対して、精进、精进こそが一本の道になって続いていた。青磁いろに红解け鼠の缟。うす紫の半襟に黒の帯、松园の自作解説によれば、『明治初期顷の京の町の中京辺の良家の御寮人というような风俗で母子の情趣を描いてみたいと思いました。髪を両轮に结び、髷を包んでいるのは当时の风俗の一つでした。
それはきゃらの油で结うたので髷にほこりなぞのかからぬように大切にする为でもありましたが一寸なかなか风情のあるものでした。これは私の幼い顷によく见たものでした。人物の着色はなるべく単纯にしまして、後の斑竹の帘の方にむしろやさしい美しさを出してみました。』とある。この年の二月大切な母を亡くした松园が、母への追慕の気持をこめて描いたものであるという。

ー 志村ふくみ(人间国宝?染织作家)

妣(はは)たちの国

远い日の読书の记忆なので、このとおりであったかどうか、たしかめようとあちこち捜すうちに几日もすぎてしまったが、上村松园と同じ明治八年生まれの柳田国男の山なす着作のどこかで、次のような一节に出会ったことがある。明治の世になり、地方から上京して苦学力行、蛍雪の志を曲げなかったあの顷の青年たちの多くをひそかに支えていたのは、暗い行灯(あんどん)、ランプの灯かげでせっせと缝物をしている故郷の老母の俤であった、と。
松园が昭和十六年、六十五歳で描いた「夕暮」は、画集を开いてこれを见るごとに、目の奥が打ちしめり、吐く息吸う息のリズムが少し乱れてくるのをどう仕様もない絵である。少くとも昭和一ケタ生まれの私の世代までは、大方の人が「夕暮」を见て同じ反応を自覚することであろう。いま、大方の人と书いたが、これには修正を要する。たとえば地形学というものでは、盆地なら盆地という地形一般の成り立ち、特徴を説明したのちに、京都盆地、会津盆津といった一地域の地形を地志として説明する手顺を踏むのと同様に、缝针を缝糸をあやつっての女の针仕事を日常の暮らしで见なれている世の中に生まれ育った人が、ここでいう大方の人一般であり、これを一般地形学の対象になぞられるとすれば、松园の「夕暮」は地形の地域差を取り上げ、地形区を设定し、これを説明する地志であり、地志をすらすら読めるのは、その地に住むことやや久しく、山、川の名はもとより弁まえ、山、川の形状をすぐに思い描ける人であろう。
この喩えがまちがっていなければ、「夕暮」を见て胸に迫るものをおぼえるのは、ある时代、ある时期に京都に生まれ育ったところの「大方の人」ということになる。要するに、「夕暮」も、これにまさるとも劣らぬ「晴日」および「晩秋」、この三つ组あるいは三幅対ともいえる松园の三大杰作には、まぎれもない京おんなの日常生活の一出(こま)が描かれている。その日常生活は、一年十二ヶ月、春、夏、秋、冬の四季、それぞれの月、それぞれの季の朝、昼、晩の気温、温度、太阳の位置、月の満ち欠け、风向き、空気の肌ざわり、そしてこういう自然界の変化に応じて変化する物の色と匂いをこめて、ひと时として同じ条件のもとで営まれることはない。加えて、生あるものはすべて一日生きれば一日老いる运命をまぬがれない。去年と今年の同月同日、同时刻に、同じいのちの形を见せるものはない。
松园は京都の市(まち)なか、中学、下京の妇女の日常をえがくにあたっては、こういう条件のすべてをあたまに収め、画中に取りこむべき物の、形の対応、色彩の映発を计り尽くして构図を决めたとおぼしい。こうして絵となったのは、京おんなという生きものの一瞬の姿であった。他の一瞬ではなくその一瞬をえらんだのは、松园の俊敏な、利発な心の働きなのは勿论だが、心の动きにぴったりと息の合うまでに锻えられて冴(さ)え返っている技芸がこれに伴っていなければ、絵は不首尾におわっただろう。
「夕暮」のような格别に上首尾な絵は、たちまち地志の一景をこえて、いのちの形というものに届いていた。そうなるとこの絵に感応する人が特定の「大方の人」、限定付きの京都人という埒(らち)をこえた一般普通のなかに広がっていっても、不思议は少しもないだろう。ある人が、京生まれ京育ちの京おとこの目に松园画中の京おんなはどのように映じるか闻きたいといった。答えるつもりの一文なのだが、ここまでで答えになっているのか、いないのか、私当人にはよくわからない。
松园は特定の妇人の肖像画というものを一度も描いていない。「月蚀の宵」のために九条武子をモデルに写生をかさねていながら、仕上げの絵にモデルの俤は少しも残っていない。画中の姿かたちはどれを见ても松园タイプに仕上り、面高(おもだか)な瓜ざね顔に口许つつましく、眉は三日月、あごに爱娇があり、匂い立つ襟足、立ち姿はすらりとして、白鱼のようなゆび、素足の爪先はしずかにたわんで长く、难のつけにくい妇女が、いつも结ったばかりの髪に栉笄(こうがい)を挿し、とっておきの似合いの和装でそのときその场の仕草を见せている。十六、七の娘から三十半ばあたりまでの、生活のよごれを全く身におびず、芥子(けし)粒ほどの心労のたねも宿さぬこの妇女たちには、色恋ゆえの表情、艶态は、想像だにけがらわしいと、つい思わせるような清らかなものがそなわっている。フラ?アンジェリコの圣少女も、ここまで清浄ではない。なるほど、めずらしい例として、镝木清方は称賛してやまなかった「娘深雪」のような絵はあるが、それとも『古今和歌集』の「恋の部」の「恋歌一」の二首目、素性法师の歌の心留まりである、
音にのみきくのしら露夜はおきて昼は思ひにあへずけぬべし
あのなまめかしいところのある「待月」と题された二点(一つは大正十五年、一つは昭和十九年)でさえ、その心は、逢ってのちの心の乱れがあらわれる「恋歌二」以下に対応するものではない。
この京おんなたちは、松园の望みどおりの京の市(まち)住みの娘たち、若嫁たちであったからには、明治、大正の世のたしなみとして幼いときから琴三味线を习っていたはずで、琴呗、端呗にひっきりなしの闺怨の词章をたっぷりそらんじていただろうに、彼女たちはそういう気配をおくびにも出さない。
当り前な京おとこからすれば、彼女たちは品が良すぎて、身ごなしに寸分の隙もないのでは、大いに気おくれがする相手である。
だが、母としてなら、どうか。ゲーテのファウストがこがれた「永远に女性的なるもの」「妣(はは)たちの国」を私は松园画中の京おんなに见届けようとしているのだと、少し耻じらいながら告白しておこうか(「妣」は亡き母または祖母のこと)。「夕暮」「晴日」「晩秋」をながめていると、幼少の顷にも、青年时代にも、何気なく目にしていた妣たちの日常がよみがえる。そして、わが手を见つめて私はつぶやく、思う人のまぼろしを前に、ヴェルレーヌの つぶやいた一言を――Qu'as-tu faittoi? (おまえは何をしてきたか)。

ー 杉本秀太郎(フランス文学者)

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